TOP中国こんな感じ。


こんな感じ。
中国住みだけど質問ある?(BIPブログ)

リンク先には北京に住んでいる方の書かれた情報。今は都市部ならどこもそんなに変わらないと思う。

私が行ったのはシンセンと杭州、無錫。住んでいたという意味では杭州が長い。これまでこのブログでも書いてきたのだけれど、ダイジェストで書いてみた。

長いので続きにて。
 
続き。

自分が初めて行ったのが92年頃のシンセン。まだ返還前の香港、古い方の香港空港から鉄道に乗り換え、国境を渡ったところにある都市。前に書いたOVAの動画検査で二週間程度の滞在を3回。当時は広東語の方が周囲で使われていたので辞書もそれに合わせて持ち歩いてた。街には犬や猫といった動物を見かける事もなく、鳥さえいない。香港へは日曜に一人出かけていたが、その時にペットとして飼われている犬を見た程度。

今でも道路横に捨てられた大量の鳥の骨(唐揚げか何かを食べた後か)が記憶に残ってる。そして交番には身元不明の死者の写真が事故や事件そのままの姿で展示しており、そこを通る度に気分が悪かった。

会社での食事は食券が配られており、動画マンの好意からいただいたのだが独特の臭いが強い料理で食べる気にならず、近場の商店で買った質の悪い、食べる先からボロボロと崩れるパンをコーラで無理矢理流し込んでいた。朝食と夕食はホテルで食べる事がほとんどだった。カレーライスを食べたくて、夜はバーとして営業している店でカレーを頼んだのだが、思った物と全く違う、皿の底に水っぽいスープが少しだけある、具の大きなゴロゴロした物が出てきた。味は確かにカレーだったけれど。最近はレトルトを含めて日本式のカレーが多く不便はない。

滞在中にマクドナルドの二号店が開店。凄い人だかりで買うのが大変だった。今でもそうだが、基本的に列を作って並ぶ事はせず、我先にと金を手にして割り込んでいく。遠慮していたら、永久に物を買えない。

当時泊まっていたホテルからはタクシーで10時頃に出社し、夕方6~7時にはホテルに帰っていた。アニメ製作会社としては珍しく残業や徹夜など一切ない、普通の会社。香港のテレビ局、TVBの子会社だ。当時はサンライズ製作のアニメ、バットマンをここで作っていた。他にもアメリカだけでなくヨーロッパ向けの合作アニメも作っていた。会議室では中国人アニメーターが日本のアニメをビデオで何度も巻き戻しながら研究し、メモを取っていたのを憶えている。また、ずっと日本人だと思っていた人が中国人通訳だと知り、そのレベルの高さに驚いた。

現在はシンセンも街が整備されて大都市となったが、当時は香港に出てみるとそのギャップは凄い物だった。香港では日本よりも先にケータイが普及し先進的であったのに対し、シンセンでは物乞いが多く、体重計で体重を量ってお金を貰う人、花を売りに押し寄せる子供達がいたり、どうしても昔の日本よりも酷いと感じていた。


時は移り、2000年に再び同じ所へ。ガンダムなどで美術監督をされていた、デザインオフィス・メカマンの故・中村光毅氏、当時所属していた会社の社長と共に現地の美術背景の会社へ提携の話し合いをするために。この時は数日程度の滞在であったが、シンセンの街の変わりようには驚いた。


2004年、杭州へ。正直、上の街を見てきた事もあり、第一印象は”田舎”だった。観光地である西湖周辺だけが栄えていた。最初の数ヶ月は会社内に部屋を借り、そこで暮らしていたが、やがて仕事も現地にも慣れてきてアパートを借りる事になった。会社から監視されているという気分から解放されて、あれこれ家財道具を購入して住みやすい環境を作った。しかしそれも家賃の高騰があったり会社の移転もあり、次第に郊外へ移動していった。この頃には好き嫌いの多い私でも、好みの料理や店を見つけており、片寄りは酷いものの食事にはあまり困らなかった。むしろ場所が遠く、単価の高い日本料理からは離れていった。一ヶ月に一度は下痢をしていたと思うけれど。

翌2005年頃から現地で友達が出来たり。中国語の習得は聞き取りが苦手ではあるが、買い物など外出時に困らない程度の日常会話が出来るようになっていた。微妙なニュアンスだったり細かい話はさすがに翻訳ソフト等を使ってカバーはしていたが。ケータイのショートメールでもピンインさえわかればやり取り出来る程度にはなっていた。

抗日デモは何度か目にした。ただ、その時間に寝ている事が多く、遠くでシュプレヒコールが聞こえる程度だった。起きてから街を歩くと日本料理(日本人の経営ではない)が壊されていたりしていた。それでも日本人だからといって攻撃されたり、からかわれた経験は一度もなかった。見知らぬ人に対しては冷たかったり距離を置くが、親しくなるとかなり積極的に付き合う感じの人が多く、食事をおごって貰ったり、声が大きくぶっきらぼうでも親切だったな、と思う。街を歩けば、スーパーでは日本語を勉強しあっている店員を見かけたり、喫茶店でも日本語で話しかけてくる人もいた。意外と日本に対して好意的な人がいるのだな、と思った。

それから外注の会社で仕事をするため無錫に滞在したりもした。ここも杭州と変わらず街には日本人が多かった。大気汚染は最近に始まった事ではなく、この当時も酷く、綺麗な青空や朝日、夕焼けが見られるのはとても少なかった。いつもモヤっているような空だった。旧正月以外にもしょっちゅう打ち上げられる花火、爆竹。これらも少なからず原因だと思う。

日本ではアパートなために飼えなかった猫をペットショップで購入。それはこのブログでたくさん書いたが、別れる時ほど悲しい事は無かった。現地の動画マンの友人に譲った後、どうなったのかはわからない・・・。

色々と文句を言いたい事はあった、しかし帰国して気付いてみればライフスタイル的にも楽だったし、自分に合っていたと思う。ネットに自由が無かったのだけが不満だった。


2008年、帰国。もう来られないかもしれないという理由から連絡先を教える事もなく、皆と別れた。その後、数回は行く機会があったものの、友人らとは連絡が完全に取れない状態になってしまった。ケータイの乗り換えや電話番号が変わってしまう事は多いらしく、再び連絡を取れる可能性は低い。街はさらに開発が進み、郊外だと思っていた場所もどんどん整備されて綺麗な街と変わっていったが何か寂しい物を感じた。


さて、中国はこの先どうなるのか。。。
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カテゴリ:中国
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Comments
2014/07/12
from 野苺ロビン #EBUSheBA URL
うじゅらんちで思い出す中国ネタ。

納豆
スクーターみたいな電動自転車
ネコ
パレードに紛れ込んだROノビ
[ 編集/削除]
2014/07/12
from マーちゃん(うじゅら) #jYbOzkUY URL
コメントありです★

納豆、一回しか成功してないんですよね(;´Д`)

電動自転車は運転許可証を取ってナンバープレートも付けたのにバッテリー盗難。猫は今後飼える状況になれるか不明。

中国関係無しで今でも続けてるのはROだけかもw
[ 編集/削除]

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